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21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)

  私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。
  私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
  だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは --- もし君たちさえそう望むなら --- おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
  私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
  君たちは、ちがう。
  二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
  もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
  そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。
  だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。


  私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
  そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
  原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
  このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
  助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
  他人の痛みを感じることと言ってもいい。
  やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」
「おもいやり」
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
  根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
  その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
  この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
  君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。

 鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
  もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分には厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、”たのもしい君たち”になっていく。
  以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
  同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。

 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
                   (平成元年「小学校国語六年下」大阪書籍)